2008年09月20日

カバかわいいよカバといえどもくちびる寒し

ブログで重要なのは足の速さだというのは最近実感としてわかったことであって、つまり「出社する。」を書いた直後に「AFRIKA」の検索で何人かが訪れてくれていた。もちろんわざわざ読んで察するまでもないようにそのエントリにはなんら有用な情報もレビューも載っていなかったのであるから、せっかく来ていただいたにもかかわらずおもに時間とクリックの手間という資源を無駄遣いさせただけで終わらせてしまったことについて残念でしたとほくそ笑むしかない 慚愧に堪えないわけだが、しかし考えてみるとゲームの発売直後にそのソフトについて検索することでなんらかの情報を得よう(しかもあらためて確認するとブログ検索で来ている=個人の感想なりを入手しようとしていると推察できる)とする行動の動機の裏にはすでにネット上にある程度有用なそれが落ちているにちがいないという期待がとうぜんあるわけで、その期待を支えているのが新作情報とか攻略とかをメインに据えてせっせと更新しているひとびとなのだと思うと月2回しか更新しない身としてはみんなすげえと思わずにはいられないところである。実際「にほんブログ村」のランキング(いちおうここも参加しております。cf.左サイドバーのバナー)から攻略ブログやウェブサイトなどを覗いてみるとすさまじい速度でゲームが解かれているようで、いやまあ彼(女)らを突き動かしているのが自己満足だったり名誉欲だったりするんだろうということはこうしてだらだら文章を書いている動機もおおむねそうだからわかるけれども、しかしそれも含めて善意であって、どう書くかを考えている途中で眠くなったら寝てしまうというだめスタイルを実践するわたしには生活リソースをそのような金になるでもない(アフィリエイトを設定するにしてもきっと微々たるものだろうと推察する)善意に大きく割く覚悟はとてもじゃないが持てそうにない。趣味ってそういうものだよね、といえばそうにちがいないのだが。

さてその『AFRIKA』なんであるが、どういうゲームであるにせよとりあえずこれだけ待たせておいてそのユーザビリティかというマイナス面はまちがいなく強調できるところだろう。ロード/セーブの長さはまるで前世紀に戻ったかの感があり、セーブ画面を寝転がりながら見るともなしに眺めながらデータ容量の「387」という数字のあとに「MB」と表示されていることに気づいて思わず身を乗り出したわたしをだれが嗤えようか。KBじゃないのかそこは。プレイのスムーズさという点では近年まれに見る、PS3とは思えぬような大失敗を展開しており、こういうユーザの視点に無頓着なところはさすがソニーという感じ。もちろんそのようなある種のユーザ軽視がソニーのパターナルな成功に結びついてきた部分があることは認める(*1)のだがまあ待機時間の無駄な長さについてはそういう信念のレベルでさえないからちゃんと仕事しろという以上の感想はない。

その他ゲーム自体の印象を大まかに挙げてしまうなら、

・楽しい
・が、おもしろくはない
・というかこれゲームじゃないよねえ

といったところであろうか。動かしているだけで楽しいのはまちがいなく、わたしにしても朝までプレイしたといいつつその実はミッションの進行もせずに大半の時間を本など読みながらカバだのゾウだのキリンだのを眺めるのに費やしていたし、あるいは隣にいるおにゃのこ(脳内ではない)にしたところでやっぱり動物が池であくびをして水を浴びているさまを見ながらカバカバ叫んで、マニャンガ自然保護区をたいそう堪能したようであった。そういう部分を肯定的に見るに吝かではないものの、しかしその楽しさはけっきょくのところ現実に類似した世界をきわめて精緻に(意外とグラフィック粗いかなというのも感想のひとつではあったが)描いたことにのみ由来するのであって、このゲームが「ゲームとして」おもしろいとか、優秀なゲームだということとかをまったく証明しないという問題は残る。たしかに楽しいしそれぞれの動物の振る舞いに感動もするが、プレイヤーに喚起される感情の源泉はゲームに内在していない――話は簡単で、「カバかわいい」と萌えられるのはカバが偉いだけだ。『AFRIKA』が偉いんではない。

ゲームで現実的な世界を描くというのは、たいてい現実のほうが細かく複雑にできているためにきわめて難しい試みのように思われがちだし技術的にはそのとおりだと思うが、しかし「ゲームを作ろうとする」という出発点を観点にすれば現実がもつ価値にフリーライドするだけだからクリエイターが目的として設定するのは下の下だ。『AFRIKA』は素敵な大地と素敵な空と素敵な水面の世界に生きる素敵な動物を再現することばかりに心を砕いていることがありありと見て取れ、これはもう現実に囚われることでゲームによって新たな世界を創出してやろうという決意が失われていく好例といえよう。まあつまり技術的な困難に過ぎないことを思想的な難解さと混同してしまうと失敗するというありがちな話である。たとえばSCEジャパンスタジオのエクスターナルプロダクション部シニア・プロデューサー・池尻大作氏が公式サイト(音量注意)で「自分の目で見て、自分自身で体験しないと魅力を表現できない」とさらりといってのけているところなどにも「勘違い」は窺えるわけだが、それって志高いように思ってるかもしれませんが逆ですよ、と指摘しておくべきところ。ゲームの長所は個人の体験のような矮小さを気軽に飛び越えてしまうところにある。経験からしか快感を創造できないなら宮本茂にはなれん。

ただもちろん世界を現実に似せるだけで悪いのでもないわけで、最終的に重要なのはその世界でプレイヤーやキャラクターになにをさせどう振る舞わせるかだ。なるほど『グランツーリスモ』は現実のクルマの価値にただ乗りしているかもしれないが、しかしそれはおもしろいしゲームとして成立してもいる。それに倣って『AFRIKA』を観察してみれば……だめだわ。いや実際写真撮るだけとはどういうことだということは多くの人が感じているんではないかと思う(たとえばこのブログでも「その「まさか」だったゲーム」と述べられている)。なんだかんだでこのゲームをもっともだめにしてしまったのは「写真撮影」をゲームの行為に設定したところだろう。

それがなぜだめかといえば目的が無意味になってしまうからである。つまりとりあえず芸術性を脇におけばわれわれがアフリカの写真やビデオを見るのは容易にそこに行くことができないからで、それらは経験の代替や補完という機能を担う。『AFRIKA』の意図がサファリを疑似体験させるということなのは明らかだと思われるが、だとすればキャラクターが現地に入りこんでいる時点ですでにその目的は果たされているうえ、それどころか写真やビデオとちがい作られた範囲なら自由に動ける/動かせる点でより高度な体験にすらなっているのだから、じゃあその写真はなんのためにあるんだという話になる。あるいは記録としてとらえるにしても、写真はずっとそこに留まることができないから撮って記録する意味があるのであり、すぐ近くにカバがいていつでもクルマを走らせてそこに行けるのになぜわざわざ撮影する必要があるのか。いや写真という芸術を楽しむんだというかもしれないが、少なくともミッションで過度な芸術性は求められていないし、ほんとうに綺麗な写真を見たいならいますぐパッケージに広告が同梱されていた『ナショナルジオグラフィック』を買ってきたほうがいい。写真を撮る動機はゲーム内ですでに満たされているかゲームではまだ不可能かのどちらかで完結してしまっていて、わざわざ現実から導入する必要などどこにもない。ゲームはゲーム、写真は写真。ゲームのほうが自由度こそ高いかもしれないが基本的にそれらは独立するべつべつの疑似体験で、入れ子にして「疑似体験世界のなかで疑似体験素材を作らせる」とおかしなことになるのだ。『セカンドライフ』内でオナニーするようなものである。いやそんなことできるか知らんけど(*2)。

実際、これだけの世界を作りあげたのだからやりようはいくらでもあったはずだ。サファリを自由に走り回るだけのほうがゲーム性は低くてもまだゲームらしさがあるし、あるいはたとえば発売前、伊集院光が『深夜の馬鹿力』で「狩りのゲームでもとくに欲しくはならない、鳥になってひたすらカバの口を掃除して食べられそうになったら逃げるゲームだったらいい/ライオンの着ぐるみ着てばれないように群れに飛びこみたい」といったことを話していたと記憶するが、さすがにこれは突飛なトークのネタだとしても振る舞いを重視するゲームデザインが不可能だったとは思えない(しかしこのあたりの発想は実現可能性はともかくさすがに伊集院であって、どう考えてもゲームに対する見識という点では彼のほうが数段上だ)。それがよりにもよって写真撮るだけでゲームを偽装されては、リアルなフィールドを作るという手段であるべきことが目的と化してしまっているさまが見て取れてむなしいことこの上ない。もしかして綺麗にアフリカを作ってみせればみんながすごいねと褒めてくれるとでも思っていたのだろうか。まさかね。そうだとしたら「幼稚園行けば?」という話になってしまう。そうではないと信じたいが、しかし『AFRIKA』がゲームとして成立しきれていないという結論は動かない。

伊集院光と『AFRIKA』を決定的に分かつもの、それは「ゲームの世界でなにをするか」という「プレイ」に対する感度の有無である。全体としては、グラフィックに過度な力を注ぐとゲームじたいのセンスが欠如しがちになるという傾向にまたひとつ典型例が加わったということであり、「ゲーム=新たな世界の創造」と考えて美しいゲームの構造を取り出したいと思っている側からすればありものの世界を再現してみせてどうだと胸を張られたところでたしかにすごいですね(棒 としかいいようがなく、技術コンペティションなんかをやるのなら価値はあるかもしれんがゲームを引き受けようとしているのならやはり評価できるはずもない。まあようするにゲーム舐めんなぐらいのことはいってもよかろうと思うのだが、ところで考えてみるとこれら『AFRIKA』のだめさというのはおおむねPS3の思想的失敗に通じるところがあると気づいて、ああさすがお膝元ですねと納得するもののしかしいいのかそれは


(*1)新商品、とくにパラダイムシフトを起こすようなものの開発というのはある程度までパターナリズムに依っているとはいえるだろう。どちらかといえばソニー本体の話だが。
(*2)と思ったら公式サイトでフォトコンテストなんかやってて、まあゲームのコンセプトからしてやるだろうとは感じていましたが本格的にオナニーですなあ。「主眼は芸術性なんです」といわれるかもしれないがその被写体含めてパッケージングされた疑似体験であって、作った側がそれを切り取って送ってね、というのはあれか、気分は孫悟空を手のひらでもてあそぶお釈迦様といったところか。これも「ぼくが再現したすごい世界をみんな見てね〜」というだけのことで発展性はなく、しかしずいぶん自己顕示欲の強いお釈迦様だこと。断言するが似たようなコンセプトで『シムシティ4』のスクリーンショットコンテストや『グランツーリスモ5』の走行動画コンテストがあったとして、それらはプレイヤーの世界へのかかわりがダイレクトに画面に反映されるから、『AFRIKA』のコンテストに比べてはるかに有意義でレベルの高い営みとなるだろう。あーあ
posted by DNF at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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