2009年01月18日

マシン/操作されるもの(1)

シリーズ
第2回:マシン/操作されるもの(2)
第3回:アクションゲームが引き受ける重力:あるいはマシン/操作されるもの(3)として
第4回:白い悪魔が空を飛ぶ:あるいはマシン/操作されるもの(4)として
第5回:撃たなくたってシューティング:あるいはマシン/操作されるもの(5)として

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『クロノトリガー』を買いに行ったのにあまり食指の動いていなかったはずの『ガンダム無双2』もつい買ってしまい、積んでおくのもしゃくだからプレイするようになって、結果的に自宅でのメインタイトルに収まった……のはまあいいのだが、どうもいまひとつ盛り上がってくるものがない。『ファミ通』のクロスレビューでは満点ひとりの計36点を叩きだしていたけれど、あのページとユーザーとの乖離を指摘するまでもなく、そこまで優れたタイトルかという疑問は残る。

そもそも、『三国無双』や『戦国無双』に比べ、おなじ無双シリーズでも前作の『ガンダム無双』のできはけっして良かったとはいえなかった。その目に見えてわかりやすい欠点は敵モビルスーツがあまりに乱雑な状態で画面を埋め尽くしているうえに――モビルスーツが現代における戦闘機(+戦車)に相当すると考えると機体にも搭乗員にも相当のコストがかかっているはずだけどこれだけ簡単に斬り捨てているとありがたみもなにもないね、というのは野暮にしても――そのほとんどが棒立ちで斬られるのを待っているだけだったことだと思うが、そういうわかりやすい瑕疵に目をつぶってもなお、良作というには躊躇せざるをえない。

その理由を探ってみるに、『ガンダム無双』および同『2』最大の失敗は、「美しいプレイから得られる快感」をうまく構築できなかったことにあるのではないかと思われる。やっていることは『三国』『戦国』でも『ガンダム』でもさほど変わっていないはずなのに、売りであるはずの「一騎当千の爽快感」には大きな隔たりがあるように感じられてならない。もちろんたんに作りこみの差ということで結論が出てしまうのかもしれないが、そうだとするとあまりおもしろい結論になりそうにないので、ここではもうすこし概念的に話を広げて、プレイヤーが操作する対象が「人間」であるか「マシン」(※今回の話では機械的な乗り物の意で使います)であるかということのちがいについて考えてみたい。『三国』『戦国』では人間を操作するが、『ガンダム』 ではモビルスーツを動かす。そのことによってわれわれが受け取る感覚に変化は生じうるだろうか。

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かつてのエントリ「ゲームとは操作にほかならない」で書いたように、キャラクターが人間であるかマシンであるかでプレイヤーの操作の意識は変わってくる。それが人間ならば、たとえ違う名前、違う人格を持っていようともプレイヤーは「ロールプレイ」としてキャラクターを自らと同一視できるだろう。われわれは、意識をキャラクターに仮託して世界を飛び回ることが可能だ。ようするに『戦国無双』で真田幸村を操作しているとき、プレイヤーは真田幸村を操作する側であると同時に真田幸村自身でもある。

翻ってそれがマシンだとすると、そのようなロールプレイは成立しそうにない。心を持たない機械と自分を同一視することの抵抗感ももちろんとして、なにより、マシンはそもそもだれかが操作するものだという意識があるからだ。画面にマシンが映っているとき、プレイヤーはそれをあくまで操作する対象としてのみ扱い、自分と同一の存在と見なそうとはしなくなる。『スペースインベーダー』のあの砲台は、あるいはわれわれが稼働させているとしても、しかしわれわれ自身ではありえない。

さてこのとき、「ゲーム内世界に存在している、実際にそのマシンを動かしている操作者」が画面から省略されていることはあきらかだろう。ゲームでマシンが動いているということは、ほんらいそれを操作する人間がゲームのなかにいるはずだが、構造的に世界の外側にいるプレイヤーがその役割を奪ってしまうために、架空の操作者はけっして前面に出てこない。レースゲームを思い出そう。そこにはクルマに乗りこんでいる(キャラクターとしての)ドライバーがいなければならないのに、しかしわれわれがコントローラを通じてクルマを直接コントロールしてしまうので、ドライバーの存在は意識されなくなっている。プレイヤーの操作はドライバーではなくクルマの動きに直結していて、わざわざ「ドライバーにクルマを運転させるようにプレイヤーがドライバーを操作」したりはしないし、ドライバーというキャラクターの能力がゲーム性を左右することもない。

この性質はゲームジャンルとはかかわりがないため、『ガンダム無双』でも基本的には同じはずである。ようするにZガンダムを動かしているのはわれわれ自身であって、人格を持ったキャラクターとして登場/搭乗しているカミーユ・ビダンは、しかしこのゲームにおいて飾りにすぎない。彼をはじめとした各パイロットは演出としてさまざまな台詞をしゃべりはするし、進度に応じて射撃・格闘・防御などの能力を向上させてもいくものの、本質的にゲームにコミットする存在ではないのである。この考察は、どのキャラクターパイロットを選ぼうとゲームの勝敗はプレイヤーの技量によってしか決定しないという当たり前の推定からも導くことができるだろう。『グランツーリスモ』や『Race Drivers Grid』でドライバーの存在感が希薄なのと変わらない。なんなら画面の前で「遊びでやってんじゃないんだよー!」と叫べばすべてが収まる話でもある(ようは『グラディウス』で自分自身をパイロットと脳内設定するのとおなじであるが、この場合にゲームは一人称視点ともっとも相性が良くなるという話は前掲エントリですでに書いたとおり)。画面に映っているのがモビルスーツだけであることからもそのことはあきらかだ。『ガンダム無双』において、われわれは画面に対して一段階メタな視点に立つことになる。しかし、そのことと問題提起した「美しいプレイ」とはどのように関係するだろうか。


以下、「マシン/操作されるもの(2)」につづきます。
posted by DNF at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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