『群青の空を越えて』についての雑感 - tukinohaの絶対ブログ領域
につき、追記があったので。わたしがあちらにお邪魔したコメントの一部をこちらにもとどめて先のエントリと一連のものとしときます。tukinohaさんの追記はリンク先参照のこと。いろいろ考えさせられますね。
ぼくらが社会に生き、その運営に参画できるのは、けっきょくそれがあらゆるイデオロギーに満ちた擬制であるからですよね。仮に社会が成員とは独立した、自律的な実体だとしたら、ぼくらは運営に加わることはできない(し、革命を企図することもできない。そして革命可能性のない社会は腐るでしょう)。すでにそれは「実体をもつなにか」のものだから。ゆえに社会はつねにイデオロギー的擬制で「あらねばならない」し、そこに生きる以上〈擬制から自由にな〉ろうとする必要はない、とそう思っています。むしろぼくらは――もちろんこれは自分が日本人であるからより強くそう考えるのだということを否定はしませんが――擬制によって生かされている(たとえば法体系のなかで)。それはおおむね歓迎してよいことではないか、と。
ただもちろん、「社会というシステムが恒常的に横たわるということ」と「いまこのとき、この場所を支配する社会システムがなんであるかということ」は峻別しなければならない。ぼくは社の演説や加奈子ルートを後者に寄ったものだと考えます。〈社会システムが絶対的なものでない〉というのは「社会システムという概念そのもの」ではなく、やはり「自分が生きている(生きたい)社会のシステム」なのではなかろうか。そしてそうだとするなら、異なるシステムが対立したとき、〈「それでも」〉命をかける意味が生まれてくるのかもしれない、そこで守るべき擬制は自分の生きる場所なのだから
tukinohaさんのおっしゃっているマックス・ウェーバーのくだりとわたしのコメントの最終段落に通じるものがあることはおわかりいただけるだろう。
おなじような基礎的思考を持ちながら目の前の物語の解釈に相違が出るという現象は非常に愉快なもので、それをぶつけあうことで自分が『群青』に抱いていた漠然とした感触を多少なりともブラッシュアップできたことは有意義であったと思う(どうやらtukinohaさんもおなじだったようだ、ということがまたなによりである)。よい会話ができた、ということに感謝したい。
(付記)まあやっぱり「(アニメに)「批評」は必要か」「続・(アニメに)「批評」は必要か/あるいは自分語りとしての批判」で書いた「批評」ってつまりこういうやりとりが成立しうるものですよ、ということなんである。

