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2008/2/28ご利用は確率的に
2008/3/12プレイヤーはみずからゲームを殺しにいかなければならない
前々回「無謬」という語彙を2度つかったけれど、「無謬」という字面で「むびゅう〜」と発音するこの関係は、ツンデレと表現するにじゅうぶんではなかろうか(挨拶)。いや「〜」は余計だろというのはとりあえず措いといて。
さて、われわれが競馬シミュレーションゲームで血統をきちんと取り扱える理由を、「プレイヤーはみずからゲームを殺しにいかなければならない」では現実世界と競馬ゲーム世界の相違から見いだすことができた。競馬ゲーム世界では血統論がすでに書きこまれた完成品の法則として存在しているから、それを疑う必要は一片たりともないというわけだ。ここでプレイヤーはとうぜんその法則を知っている。それは攻略本やネット上の攻略情報を見れば一目瞭然のことであり、たとえ情報を避けていても長くプレイしていれば自然に気づくことだ。ゲームがクリアされることを望む以上、優秀なプレイヤーがゲーム内に設定された既知の法則に対して従順に振る舞おうとするのはそうすることが優秀性を証明するためにもっとも合理的だからにちがいないが、しかし同時にその判断がゲーム世界の内側に深くコミットメントするものとしての理屈でしかないことに気づく必要もあるだろう。競馬ゲームにまつわる言説を辿っていくと、プレイヤーにはある視点が欠けているように感じられる。今回(と次回)は競馬と競馬ゲームにかんする話の締めとして、その視点がなんなのか、またそれがなぜ欠けているのかを、関連2エントリに対するカウンターとしての役割も期待しつつ明らかにしたい。
以前のエントリ「ルールはスタンド・アローンに」で述べたとおり、「ゲームを作るとは世界を創ること」である。マリオが地面さえあればどれほど高いところから落下しても死なないことや、逆にそれほど害意をもっていないように見える亀に横から接触するだけで死ぬことは、『スーパーマリオブラザーズ』というゲームが誕生した瞬間に形成されたひとつの世界の根幹をなすルールだといっていい。マリオの能力がわれわれとあきらかに異質であり、ゲームのなかに広がっているのが現実でない独立した世界であることは、プレイを通じてたしかに確認されている。「『スーパーマリオブラザーズ』をプレイする」とは、その世界に入りこんで独自の法則を受けいれたうえでマリオ(ルイージ)として振る舞うに等しい(あまねくゲームはプレイヤーにロール・プレイングを要請する)。それはたしかにそうなのだが、マリオがステージを進んでいるとき、プレイヤー自身がその振る舞いを現実世界から観察していることもまちがいないだろう。ゲームのプレイヤーは現実からゲームに対して入力をおこなうことで現実と無関係に営まれているゲーム世界にコミットし、そこから出力された反応の情報をゲーム世界とは別の法則で運動している現実で手に入れる――そして、その往復を連続的に繰りかえすことによってゲームはプレイされる。この瞬間われわれは、行為者かつ観察者であり内部者であると同時に外部者であるという特殊な状態にその身を置いているのである。
このように内部にいながらにして世界を俯瞰できることで、あるいは外部の視座を持ちつつ世界にコミットできることで、「プレイヤー」は「ゲーム世界やキャラクターに同化し、内側の存在としてある目的に向かって行動すること(クッパを倒し、ピーチ姫を救出するなど)」と「ゲーム世界の外側から、ゲームに対してなんらかの入力をおこなうこと(十字キーでマリオを動かし、Aボタンを押してジャンプするなど)」という二重の意味での「(ロール)プレイ」を経験することができる。ここにおいて、ゲームをプレイすることはもはや単層的な行為にとどまらず、複合的な批評精神を獲得する機会となるだろう。だれだっていちどくらい、『スペランカー』の主人公が自身の身長程度の高さから落下しただけで死ぬことや『ドラゴンクエスト』で民家のタンスを住人の在不在にかかわらず堂々と漁れることを、それらのソフトをプレイしながら自分たちの世界ではありえないとして笑いのターゲットに据えたことがあるはずだが、これはゲームに対して外部に位置することもできるからこそとれる高度な批評的態度である。逆を想定すればその態度の輪郭はよりはっきりする。つまり、現実世界の人間が自力で空を飛べないことを批判できないのは自分自身が現宇宙の物理システムに組みこまれているために追及じたいが無意味になってしまうからだ。内部にとどまりつづけるかぎり自分がいる世界そのものは解析できても批評できない。それをするにはいったん外部に脱出するしかないのである。ゲームの価値は、ほんらい困難なその脱出をあっさりとプレイヤーに達成させてしまうことにあるといえるだろう。ゲームで遊ぶことで、ひとは新たな視座を得る。しかもその視座はおよそあらゆるゲームで有効だ。500年も市長をつづけるなんてありえないといいつつ、『シムシティ』の日付は2487年を指している。RPGでモンスターが金を持っていることに疑義を呈しながら、それらを倒して得た資金で武器と防具を買いそろえることはいとわない。われわれは内/外のあいだを横切るスラッシュを一度ならずかんたんに乗り越えている。その自由な往復はプレイヤーに与えられた特権である。
競馬シミュレーションゲームをプレイするときも、その特権的な往復は十全に機能する。つまり『スペランカー』や『ドラクエ』のキャラクターの振る舞いを笑うように、『ダービースタリオン』で「ナスルーラのインブリードでスピードアップと気性が悪化」することを、そんな都合のいい話があるものかとばかりに笑ってもいいのである――むしろそうしなければならないはずだ。すでに見てきたとおり、現実の馬産でそのように決まっているわけではないのだから。だが寡聞にしてそういった言及はあまり聞こえてこない。どうやら競馬ゲームのプレイヤーは「すでに確定された血統論」を信じることになんの躊躇も感じていないように思われる。もちろん内部的な振る舞いとして世界にしたがうのは合理的な必然として認められるが、その合理性が内部でしか通用しない以上、外部にまで拡張する理由はどこにもない。にもかかわらずそのような態度はしばしば見受けられるのだ。たとえば「ご利用は確率的に」で紹介したわたしの旧友が『ダービースタリオン』の設定を追認するがごとく(実際に追認したかどうかはわからないが、ここでの事実はどちらでもいい)Devil’s Bag産駒を早熟だと断じていたことは、そういう傾向の存在を端的に示唆していよう。「競馬ゲームのプレイヤーに欠けている視点」とは、世界を俯瞰して外部から批評するためのそれである。いや、むしろそれをみずから手放し、ゲーム内で形成されるだけの世界と現実をきわめて無批判に結びつけて、その世界を貫く法則に真実の蓋然性を見いだそうとしているとさえいえるだろう。そこになんらかの理由が存在するのか、とまずは問題提起をして、短いながらも今回のエントリを閉じ、検証は後編として後日記すことにしよう。
2008年03月26日
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