2008年04月09日

血統論は現実のなかに境界を形成する

関連記事:
2/28ご利用は確率的に
3/12プレイヤーはみずからゲームを殺しにいかなければならない
3/26ゲーム機は世界の境界に構えている

「無謬/むびゅう〜」に萌えられるなら、萌えはバルトで解体できないものかと思ってみたり(挨拶)。フェチはさしずめカントで。忙しくてなかなか書き進められずにいました、すみません。

さて長々とつづけてきた競馬ゲームの話も、終わりに近づいてきている。前回の最後に提示した問題は、なぜ競馬ゲームのプレイヤーは本来的にゲーム内世界でしか通用しない法則に真実性を見いだし、さしたる疑問を持たずにしたがってしまうのかというものであった。競馬ゲーム、もちろん競馬ゲームにかぎらないが、それらはひとつの独立した世界であって、プレイヤーの側から親切に現実とリンクさせてみせる必要はとくにないはずだ。それどころか、むしろリンクを無視することがゲームを楽しく遊ぶコツでもある。見てきたように『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしていれば、マリオを高いところから飛び降りさせても平気なことにはすぐ気づくだろう。このとき「身長の5倍の高さから落下したらふつうは助からない」などと考えてジャンプをためらっていてはいつまで経ってもゲームを進められないから、プレイヤーは積極的にその疑問を無視しなければならない。その無視を繰りかえしてプレイするうちにわれわれは自然と「マリオはマリオ、自分は自分」であるということを理解するわけなのだが、競馬ゲームはそのような理解をほかのゲームほどには喚起しないように思われる。『ダービースタリオン』(以下『ダビスタ』)における「ナスルーラのインブリード」は、たしかに「生まれてくる競走馬のスピードを上げるが、気性難も誘発する」ものとして納得されているのではないだろうか。その理由を探っていくうえで、毎回のことで申し訳ないが「Devil’s Bag産駒が早熟である」という発言をしたわが旧友にみたび登場してもらうことにしよう。

1998年にわれわれがもっとも熱心に遊んでいた競馬ゲームはプレイステーション版『ダビスタ』で、それに海外種牡馬として登場するDevil’s Bagは早熟傾向のある種牡馬として設定されていたと記憶しているが、推測するに、わたしの旧友はそれに引きずられて安田記念出走当時のタイキシャトルを力が衰えはじめているのではないかと指摘したのだった。その指摘は幸福なことに外れた(これが当たっていたとしたら日本の競馬ファンの悲願が一気に果たされたあの2週連続日本調教馬海外G1制覇が成し遂げられていなかった可能性もあるのだから、外れたことは幸甚の至りである)が、ここでわたしが試みたいのは、彼に対して「現実とゲームの区別がついていない」などというばかげた批判を展開することではない。彼はまちがいなく、その「早熟」が『ダビスタ』における方便だということは理解したうえで、それでも援用して不都合がないと考えて「タイキシャトルの衰え」に言及したはずである(ここでその議論の正誤がもはや問題とはならないことは明らかだろう)。考えるべきは、理性的なプレイヤーに現実とゲームを関連づけさせようとする構造がどこかに存在するのかどうかという点に他ならない。

すでに幾度かにわたってまとめてきたように、競馬における血統論は確率的にしか語りえないものであるのに対して、競馬ゲームにおけるそれは確定的な記述としてそこにある。ここにはたしかにその取り扱いかたに対して大きな相違が見て取れるが、しかし同時に、ふたつの異なる「血統論」を結ぶ強力なツールとして、われわれが「血統表」と呼ぶものの存在を無視するわけにはいかないだろう。競走馬の生産という場面のみにポイントを置いたとき(一連のエントリで一貫してレースシーンを扱っていないことをここで念押ししておく)、現実世界とゲーム世界で唯一共通性を見いだせるとしたら、それはこの血統表のはずである。たとえばタイキシャトルをまた例に取るなら、そのような名を与えられた栗毛の競走馬はどちらの世界にもたしかに1頭存在し、バックボーンとしておなじ構成の血統表を持っている。もちろんどちらの血統表も、現実では積み重ねられた歴史によって、ゲームでは「そういうもの」として、それが「正しい」ことは証明されていよう。血統表は、その記述のされかたがまったく同一であるがゆえに(とうぜんそれが同一なのは後発世界であるゲームが現実を参考にしたからであるが)、現実とゲームを強く接続する。

とはいえ、たんに共通の要素を持っているというだけの理由でプレイヤーが現実とゲームを接続しようとするわけではない。野球ゲームと野球、あるいはサッカーゲームとサッカーなどは競技規則や運動の表現などを同じくするが、これらを同一視するプレイヤーは基本的にいないと考えていいだろう。もちろん、その理由はゲームが(現実をまねしようとしたときに)微妙な動きを再現できないことや、「レースゲームがつながる現実」で書いたように運動の仕方がまるでちがうということに求めることができる。いってみれば概観が似ていても、あるいはむしろそれゆえに、すこしの違和感がかえって増幅されて感覚が現実と乖離する結果を生むのである。だが血統表を中心に見たとき、競馬/競馬ゲームのあいだには違和感をみつける余地がない。それについて、おなじ表が書かれているだけだからとうぜんだろうと論じればいいだろうか。じつはそうではない――いや、そうなのだが、「おなじ表が書かれている」ことそれじたいを重視しなければならないはずだ。血統表はきわめて静的な記述として、現実にもゲームのなかにも置かれているが、これは見過ごされがちな競馬ゲームの特徴である。こういういいかたをしてみよう。野球をゲームにするときに必要なのは「運動の記述」だが、競(走)馬(の能力判定)をそうしようとするならば、なされているのは「記述の記述」であるはずだ、と。

たとえば根強い人気を誇る野球ゲーム『実況パワフルプロ野球』シリーズの『14決定版』において、ソフトバンクホークスの多村仁外野手には「弾道:3 パワー:119・B 走力:10・C 肩力:10・C 守力:12・B エラー回避:11・C(ついでにいうと特殊能力「ケガしやすい」がとうぜんのようについている)」、あるいは横浜ベイスターズの三浦大輔投手には「最高球速:146km/h コントロール:140・C スタミナ:156・A 変化球レベル:カットボール2、スローカーブ3、フォーク2」という能力値を与えられているが、彼らをはじめ全選手に割り当てられているこれらのパラメータは、しかしいうまでもなく「嘘」の集合である。もちろんこれは、コナミの能力査定がいいかげんで真の能力を反映していないという意味での嘘ではない。たしかに「コナミは野球を知らない」というむやみな断定とともにされる批判はネット上で散見され、真の能力は自分たちこそが知っているとばかりに能力査定のやりなおしをしているところ(おもに『2ちゃんねる』の当該スレとか、それのまとめwikiとか)もあって、しかも言うだけあってそちらのほうがよりファンの感覚に近いように思えなくもないのだが、とはいえどれだけパラメータの数値に真実味があったところでしょせん嘘であることになんらの変わりはない。多村仁の「パワーB」「ケガしやすい」は、この虚弱な強打者についてなにか語っているようでいながらじつのところなにも表してはいないのだ。それらのパラメータはたしかに多村らしさを示しているが、しかし多村ではありえない。なぜならゲームで多村を描こうとするとき、彼のプレイはすでに終えられている。残っているのは記録と名付けられた運動の結果をわずかにうかがわせる残滓だけだ。語られてしまった選手は、すでにその選手ではないという単純な事実がここにはある。野球と野球ゲームは「野球→野球ゲーム」のように直結はされず、かならず記述という欺瞞を仲介役にすることによって「野球→記述→野球ゲーム」のかたちで変換されてしまう。このとき、もはや野球ゲームは「野球にかぎりなく似た別の競技」を表現しているにすぎない。われわれに現実とゲームの断絶を認識させるのは、このように運動をいったん停止して記述しようとする試みだということができる。

だが、ある血統で構成されて生まれた現実の競走馬の特徴は、その根拠を血統表というすでに記述されたリストのなかに見いだそうと試みることが可能だ。ここで「血統表から能力を探る」というのは、表に書きこまれている各先祖を記述的なパラメータとして扱うことに他ならない(パラメータとして定量的な価値を与えないと、一定程度たしからしい理論として成立しない)。そしてすべての血統論は、現実においてもゲームにおいても、血統表をもとに編みだされて運用される。たとえその発想がきわめて恣意的で推理とも呼べないような妄想でも、競馬ファンのなかにそうしようという傾向が存在しうることは、「ご利用は確率的に」で見たとおりだ。つまりあらゆる血統論(これには「Devil’s Bag産駒は早熟である」というきわめて単純な推測など、種牡馬・繁殖牝馬自身の能力規定を含む)が競走馬の能力の根拠を静的に記述しようとする試みであるならば、それは現実でつねにおこなわれているのである。ここに競馬ゲームと野球ゲームの違いがある。もし両者がおなじような構造を持つなら、競馬ゲームも「競馬→記述→競馬ゲーム」と接続され、ゲーム世界の理屈を現実に援用するのはためらわれたのかもしれない。しかし血統論という欺瞞的な装置があるために、競馬とゲームの関係は「(競馬→記述(=血統論))→競馬ゲーム」と変わることになる。ほんらいなら現実とゲームを断絶させるための記述が現実の側に内包されていることで、両者は直結されてしまう。

競馬ゲームは現実の競馬に対して嘘をつこうとしていない。たとえゲームには現実の血統論ではありえないような荒唐無稽な理論が設定されているという論難があろうとも、そこには「現実の血統論」とやらがすでに荒唐無稽だという反駁が用意されている。記述がつねに嘘をはらみ、その嘘によってプレイヤーに断絶がもたらされるのだとするなら、現実が嘘を引き受けてくれている競馬/競馬ゲームの関係は、きわめて真実味を帯びることになるだろう。「Devil’s Bag産駒のタイキシャトルは早熟」というその推測は、結果的にまちがっていたにしろ、思考のプロセスとして問題のあるものではなかった、わが旧友を擁護するならば、そういうことだ。

――ところで最後に、だとするならば競馬ファンは「競馬/血統論」の断絶を感じ取っていなければならないはずだ、という疑問がとうぜん湧いてもいいはずである。今回の例でいうならば、『ダビスタ』の設定をもとに現実のタイキシャトルを早熟と判断しようとするのはよいとしても、その現実のなかでそれが通用するのか疑問に思わなければならないではないか、と(それはまさしく「ご利用は確率的に」でいいたかったことだ)。しかしそれは仕方ない、馬券を買うという自分の行動に対して正当性を欲するのはたぶん自然な感情なのだから。つまりけっきょくのところ、われわれは無根拠に買い目を選んでいるわけではない、と信じこみたいのだ。ここでは、血統論は自分が論理的に振る舞っていることを擬似的にであっても証明してくれるツールのひとつとして機能するがゆえに有効だ、といえばじゅうぶんだろう。自己満足? あるいは、かっこつけ? いいではないか。しょせんは25%を控除された勝ち目の少ない賭けである。
posted by DNF at 01:56| Comment(3) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
う〜ん、長いこと引っ張ってきたわりには論旨も文章もセンスをなくしてしまった感は否めませんね。全体的に冗長すぎたか……。ちょっとつまらない結論と出来のよくないエントリで落ちてしまいましたが、さしあたって競馬ゲームの話は終了とします。
Posted by DNF at 2008年04月09日 02:02
馬券を買うときの理由として、血統を考えざるを得ない部分ってありますよね。
ただ、それだけを見ていても駄目だろうし、かといって血統を見ないで買えるほど、自信もない。

やっぱり自分を納得させるための材料なんでしょうかね。
Posted by 七瀬修 at 2008年04月09日 07:20
>七瀬修さん

すくなくともわたしは「血統で馬券を買う」ことは実利的な理由にはあまりなりえないと思っています。そう考える理由は一連のエントリで触れた以外にももうひとつあって、かりに血統という根拠によってすべてのサラブレッドの能力を客観的に比較できるようになったとして、つまり「究極の血統論」というものが完成したとして、それでもわかるのは「出走馬の能力」までなんですね。

でも馬券を的中させたいなら、当てなければならないのはもっとも強い馬はなくて、レースで1着をとる馬です。前者は精緻な血統論の構築によっていつか果たされるかもしれない。でもそれが後者に直結されるかといえばかならずしもそうでないということは、競馬ファンにはいうまでもないでしょう。われわれは「メンバーのなかではいちばん強いと思われる」馬が負ける姿を、もうなんど見たことか。

もちろん、「もっとも強い馬が勝つ蓋然性がいちばん高い」というのはそれなりに説得力のある理屈ですが、そのときに「この馬がいちばん強い(あるいは、適性に秀でている)から勝つ「はずだ」」という思考は、おっしゃるとおり「自分を納得させ」ているのということになると思います。レースには不確定要素が多すぎる。血統と馬券を直結させるのは、その部分を過小評価している感じはありますね(純粋に血統の要素だけで馬券を買っているひとはあまりいないでしょうが)。

そういう意味で、最初のエントリに戻りますが、やはり血統論は馬産家のためのものじゃないかと。
Posted by DNF at 2008年04月14日 00:16
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/92728457

この記事へのトラックバック